強がり性分の戯言 ― 2016/03/04
”男だったら殴っているとこだ”と言われていたくらい生意気だったような
若い頃の私はその印象が強かったようで、その当時はまだまだ”女の癖”
にって感じの風潮が残っていた時代だったのかもしれない。
最初の夫とは所謂職場結婚で、面接に行って社内見学していた私のその様子を
見ていた印象はいいものではなかったらしいが、後々にその相手と結婚する
なんてね、表面的な印象なんてやっぱりあてにならないじゃん。
20代後半ですでにその当時の夫と会社を立ち上げていて30代になった頃には
性格も少しは丸くなっていったとは思うけど、
基本的には男性への対抗意識のような強がり性格は残っていたと思う。
何故にこんなにも可愛げないんだろうかって自己分析してみれば、やっぱこれは
男尊女卑の父に育てられた反動の影響を受けてそのまんま大人になったんではと。
家庭内独裁者のような父にことごとく反発していた私は、規則やルールに
縛られるのが息苦しく知らず知らず自由奔放な行動をとるようになっていた。
そうなると、『我が儘な性格』なんて、いとも簡単に判定されてしまうのだった。
そんな私だけど、こと女性に対しては優しく一歩も二歩も譲るという
精神構造の持ち主であったりするが、女性同性愛者ではない。
自由奔放さな発想と行動は今も基本的に変わらないと思うけど、
それとは矛盾するような半面が私の内に根付いていて、
人への気遣いが年齢を増すごとに過敏になっていくような傾向にある。
知らず知らず母の性格の影響を受けてきて似てきてしまったのだろうか。
基本的には一人行動が好きな私は親分肌ではないけれど、昔も今も変わらない
部分は、頼ってこられるとどこまでもとことん付き合ってしまう性分がある。
お人好しと言うには、実は内面は自我が強いのでちょっと違うような気がする。
”来る者は拒まず去る者は追わず”な〜んてそんな事言ってきた私だけど、
いつのまにか昔に比べると友達が減ってしまってるじゃん。
ま〜それで実際に寂しいとは思わないんだけど、逆にそう思わない私がこれで
いいのだろうか、自ら行動範囲の視野を狭めているんではないだろうかって、
ちょっと考えたりすることがある。
友達の定義は人さまざまで、ちょっとした知り合いでも人によっては
友達と位置づけしてしまっている人もいたりする。
私はやっぱり腹を割って本音で語れる付き合いでなければ『友達』とは
到底言えないし、あくまでも『知り合い』の域に過ぎない。
あのFBのたぐいは、好きになれないのもその一つで、大勢よってたかって
盛り上がり気分を共有しているつもりのその場が私には心地よくない。
単独行動の醍醐味は、人への気兼ねもなく気楽さと自由さがあってこそ。
一人行動が好きだからって決して偏屈な性格ではないのも事実。ないどころか、
どちらかと言うと公の集まりではサービス精神を発揮してしまう。
すべての人たちがどのようにしているかマンウォッチングしている私。
近頃は生活環境で自然豊かな森の中を歩くのが好きになったけど、元々は
大都会の喧騒と雑踏の中を歩くのも苦でなく好きな私はこれで田舎派と都会派の
どちらでも過ごしても楽しめるという両面性が持てるようになった。
郷に入れば郷に従えで、結構順応性があったりした自分を発見。
私にとっての一番の価値観はやはり心と心が通い合う関係性で、
夫婦関係に限っては、表面的豊かな仮面夫婦よりも噓偽りのない内面的な
関係性は絶対に妥協出来ないけれど、友人や知人に関してはもう少し肩の力を
抜いて、範囲を広げるつもりで時には私の方から声をかけてみるのも良いのかも。
こんな私だけど、こと恋愛に関しては積極的で私の方からためらいもなく
アタックしていたっけ。なんか〜私ってヘンな奴???
表面的には強がって生きているような私の実態は、
心配症なシミュレーションが絶えない気苦労症&繊細&自意識過剰な
行く末は自滅型という実に滑稽な自分に、ご苦労さまと言いたい!

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